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最高裁判所第三小法廷 昭和52年(あ)2285号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件を広島高等裁判所に差し戻す。

理由

被告人本人の上告趣意は、事実誤認の主張であり、被告人本人、弁護人原田香留夫、同高橋禎一、同博田東平連名の上告趣意、事実誤認、単なる法令違反、再審事由、量刑不当の主張であつて、いずれも刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

しかしながら、所論にかんがみ職権をもつて調査すると、原判決は、左記の理由により破棄を免れない。

昭和四六年一二月二二日付起訴にかかる業務上過失致死傷事件(ただし、第一審第二〇回公判において予備的訴因が追加され、第一審判決の左記認定事実は、この訴因に対するものである。)について、原判決の容認した第一審判決の認定事実は、「被告人は、自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和四六年五月二三日午後八時四〇分ころ、普通乗用自動車を運転して、岡山県備前市三石二九三七番地先付近の国道を、前照灯を下向きにして時速約七〇キロメートルで西進していたが、前照灯を下向きにしていれば前方照射距離が短縮されるのであるから、自動車運転の業務に従事するものとしては、その照射距離である約三〇メートルの範囲内で進路上の障害物を発見して直ちに急制動の措置を採ることによつてこれとの衝突を回避し得る程度(時速約五〇キロメートル以下)に減速し、進路前方を注視して進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのに、被告人はこれを怠り、前記速度のまま進行した過失により、進路前方中央線左の道路上に放置されていた燃料用補助タンク(長さ約八〇センチメートル、幅約五〇センチメートル、高さ約三〇センチメートル)に気付かず、自車右前輪を同タンクに乗り上げて自車を右斜前方に暴走させ、折から同道路右側を対向して東進中の三宅義博運転の普通貨物自動車の左前部に自車左側部を衝突させ、よつて自車の同乗者橘高美津子(当時四七年)を大脳完全破裂により即死させ、同三阪真理子(当時二六年)、同住井澄子(当時四〇年)を同日午後九時一五分ころ、同市伊部一三九三の一所在、島田外科診療所において、右三阪については脳開放性挫創、頭蓋開放性骨折により、右住井については顔面頭蓋複雑骨折等により、それぞれ死亡するに至らせ、同三阪聖(当時二か月)に対し、加療約二〇日間を要する右陰のう裂創等の傷害を負わせたものである。」というのである。

これに対し、被告人が第一審公判以来弁解するところは、本件事故当時、被告人は判示乗用自動車を運転し前照灯を下向きにして走行していたが、速度は第一審判決認定のような毎時七〇キロメートルではなく毎時五〇キロメートル程度であつたから、被告人には同判決がいうような速度調節義務違反の過失はない、というのである。

そこで、被告人車の事故当時における走行速度について検討すると、この点に関する第一審判決の認定に沿う証拠としては、鑑定人長町三生作成の鑑定書及び証人長町三生に対する第一審裁判所の尋問調書があり、これによると、同鑑定人は被告人車の右走行速度は毎時六八ないし八〇キロメートルであつた旨鑑定しており、その他、司法警察員作成の昭和四六年五月二四日付実況見分調書などから認められる被告人車の本件衝突による破損の状況、程度、及び被告人車に衝突された判示普通貨物自動車の運転者である証人三宅義博の被告人車の走行速度に関する証言などを参しやくすると、第一審判決の右認定はこれを是認しうるようにも思われる。

しかしながら、更に詳しく検討すると、

(一) 長町鑑定人の右鑑定の理由は、要するに、同鑑定書一五頁以下に記載されているとおり、「前掲司法警察員作成の実況見分調書の写真4、5、9、10などとマークⅡ(被告人車)の乗員の死傷者発生の情況から、大雑把にいつてマークⅡの衝突直後のスピードは、時速六〇キロ〜八〇キロぐらいであろう。時速五〇キロ程度ではかような事態になりえない。また、このことは、同写真9、10から日野レンジヤー(判示普通貨物自動車)の破損状況を観察し、また衝突後の車両行動のパターンからもいえる。」とし、これを前提としたうえ、本件衝突の事態に相応する力学モデルに力学上の諸法則などを適用して得たとする被告人車の衝突直前及び直後の速度を関数として含む方程式に、右にいう被告人車の衝突直後の速度を代入して計算し、被告人車の衝突直後の速度が毎時六〇キロメートルの場合には、その衝突直前の速度は毎時68.37キロメートルとなり、被告人車の衝突直後の速度が毎時七〇キロメートルの場合には、その衝突直前の速度は毎時79.8キロメートルになるので、結局、被告人車の衝突直前の速度は約六八ないし八〇キロメートル(四捨五入)となるというに尽きるものである。証人長町三生に対する第一審裁判所の尋問調書をみても、右に要約した以上の理由は述べられていない。ところで、右鑑定理由にいう「被告人車の衝突直後の速度」とは厳密には何を意味するのか明瞭でないが、その点は別としても、右鑑定の結論が正当かどうかは、その前提、すなわち、右鑑定にいう「被告人車の衝突直後の速度」が確実に毎時六〇ないし八〇キロメートルの範囲内にあると認めてよいかどうかの点に依存しているといわなければならないが、この点についての同鑑定人の説明は前記のとおりであつて、なんらの具体的かつ実証的な根拠をあげていないにひとしいものであり、したがつて、右鑑定の結論の正確性は保しがたいものといわなければならない。

(二)  前掲実況見分調書及び中国地方建設局岡山国道工事事務所所長提出の船坂山隧道構造図、同隧道付近国道平面図及び縮断図、証人平田三郎の第一審公判における証言、医師作成の死体検案書三通及び診断書一通などによると、本件事故現場は岡山県備前市三石所在の東西に通ずる船坂山隧道(全長約一〇〇〇メートル、隧道内道路幅員は両側合計六メートル)の西側口を出た直近の道路上であつて、被告人車は、その東側口から同隧道に入り西側口を出た直後、同出口の西方約八メートルの地点に放置されていた判示燃料用補助タンクに車輪を乗りあげ、ハンドルをとられて右斜前方に逸走し、折から進行してきた判示普通貨物自動車に衝突したものであること、衝突の態様は、被告人車の左前道と貨物自動車の左前部が衝突し、衝突後、被告人車の道路右側の石垣と貨物自動車の左側面に狭まれるような形で停止したこと、右衝撃により貨物自動車の左前部などが損傷したがその程度は比較的軽度のものであつたのに対し、被告人車の左前部、左側面及び屋根左側中央部などが大きく破損し、右側面部にも若干の変形が生じたこと、貨物自動車の乗員に負傷はなかつたが、被告人車の助手席に乗車していた被告人の妻及び後部座席に乗車していた成人二名がいずれも主として頭部、顔面に重傷をうけて死亡し、被告人及び後部座席にいた乳児一名もそれぞれ傷害をうけたこと、などの事実を認めることができる。右衝突の態様、被告人車の破損の状況、程度及び乗員の死傷発生の状況などに照らすと、被告人車の衝突時における速度は相当高速であつたと推測されるところである。しかし、これらの事実から、直ちに被告人車の事故直前における走行速度が第一審判決認定のとおりであつたと認定することは、できないように思われる。

(三)  前掲証人三宅義博の証言によると、「自分は、当時、判示貨物自動車を運転して本件事故現場に向つて東進し、毎時四〇キロメートルの速度で走行していたところ、隧道西側口から出てきた被告人車が、突然、センターラインをこえてきたので、自分は直ちに急ブレーキをかけたが、被告人車に衝突された。その際の被告人車の速度は、はつきりしないが、毎時六〇キロメートルぐらいであつたように思う。」というのであるが、これまた第一審判決の前記認定を支持するに足りないものといわなければならない。

(四)  のみならず、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、被告人の第一、二審公判における各供述によると、「自分は、当時、判示乗用自動車に妻を含む女性三名と乳児一名を乗車させており、本件事故当時まで右隧道をしばしば通過していて、その道路状況などを知つていたが、隧道内の道路幅員が狭いだけでなく、隧道内の照明状況は排気ガスの充満や夜霧などによつて悪く、しかも、たえず左側壁に注意を払い運転しなければならないため、制限速度は毎時六〇キロメートルであつたが毎時五〇キロメートル以上では走れないような場所である。ことに、隧道東側入口までの勾配がきつく、スピードがおちるので、事故当時、同入口付近での速度は毎時四〇キロメートルから五〇キロメートルまでであり、その後も毎時五〇キロメートル程度で走行していた。そして、西側口を出る直前ころ対向車の前照灯のライトが目に入つたという記憶があるが、その直後、全く原因を理解できない状態で、対向してきた貨物自動車に衝突した。」という趣旨の供述をしており、この供述は、捜査段階以来終始一貫したものである。

(五)  なお、当審において弁護人から提出され原判決の当否を審査するため公判廷に顕出した成蹊大学工学部教授江守一郎作成の弁護人宛の鑑定書及び別件民事訴訟事件における証人江守一郎に対する広島地方裁判所の尋問調書の写によると、同教授において、原判決後、弁護人から貸与された本件訴訟記録の写などに基づいて、前掲長町鑑定人の鑑定結果の当否などについて検討し、被告人車の事故直前における走行速度は毎時五〇キロメートルであつたと判断されるとしてその理由(この中には、若干首肯しがたい点もないではない。)を詳細に説明していることが認められる。

以上(一)ないし(五)の各認定事実、証拠及び資料を総合すると、被告人車の事故当時における走行速度は毎時七〇キロメートルを相当下回るものであつたとみられる余地があり、この点に関する第一審判決の前記認定には事実の誤認を疑うべき顕著な事由があるといわなければならない。

そうすると、第一審判決の右認定を容認した原判決には、第一審判決の重大な事実誤認を看過した違法があり、これが判決に影響を及ぼし、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

なお、原判決は、本件業務上過失致死傷罪のほか、別に昭和四八年一二月二〇日付起訴にかかる道路交通法違反の罪を認め、右両罪は刑法四五条前段の併合罪の関係にあるというのであるから、本件のみを分離することはできないので、原判決を全部破棄する。

よつて、刑訴法四一一条一号により原判決を破棄し、同法四一三条本文に従い、本件を原審である広島高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(江里口清雄 高辻正己 環昌一 横井大三)

被上告人の上告趣意〈省略〉

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